「俺はあいつ(子息)が学校をサボったり、何かした時殴ってたんだよ。本当に後悔しているよ」
ある利用者(男性)から突然その方にとって大事な話をされた事がある。(大抵大事な話は聴く準備が出来ていない時にうかがってきた気がする)
深く関わってきた方だったがその手の話ははじめてうかがった。あまり息子を殴りそうに見えないがそういう事もあるだろうと。その事を強く後悔している事が印象的だった。
どのように声をかけたか(あるいは聴くことに集中して声をかけなかったのかもしれない)は覚えていない。その時点でもう何年も例えば「自分を許す」といったいわゆるスピリチュアル的な思想は卒業したというか持ち合わせて考える習慣はなかったので何度かその方と対応するたびに思い出された。あの時の話は私にとって何か意味があるもののように思えた。
少したった時期にこういった文言を目にすることがあった。
後悔や後ろめたい事。その事が今の自分につながっている。
人生はその時はそうするしかなかったのだから、その黒歴史をあまり悪い面だけを見ない方がいい。その経験の裏にかならずいい面があるのだから。(人生を主語にして語るのは気が引ける為、再度補足しておくとあくまで目にした文章にこのような事が書いてあった)
自分自身の後悔や後ろめたい事にも例外なく当てはまっていく。
その方の場合、その経験や後悔が今の穏やかな他者を許せる人格になっていったと考える事は出来ないだろうか。いつだったか施設内で想定外のトラブルがあり謝罪をするとこのように言って許して頂けた。「いいんだよ。人間がすることだから間違いはあるんだよ」と。
この方も終末期として施設で亡くなった。終末期の対応中に何度か子息(私より大分年上だが)と顔を合わせたが結局はこのエピソードは伝えられなかった。
本人は話せる状態ではなかったし、私に伝えようという意思は一時はあったが結局は話せなかった。家族に本人の代弁や語られた事を伝える機会はよくある事だったが、やはり何十年も前であっても内容がデリケートだった為、控えたのだと思う。
私はこのタイミングで子息の心に踏み込む事やその結果に感情に変化があることを恐れたのだとも思える。
もっと単純に子息に私の口からでも伝えた方がいいのか、その方の意思を確認の取りようがなかったからが正しい感情なのかもしれない。
もし大事な相手に大事な話があったら話しておいた方がいいのかなとも思う。
私のように大事な情報があってもさりげなく伝える機会を失ってしまう職員も中にはいるので。
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Y様 心よりご冥福をお祈りいたします。